ある晴れた日に、浜辺で貝掘りをしていた原始人がたまたま尖った巻貝を見つけてそれを葦の棒切れに突き刺し、“回転して”外した・・・。これが人類と“ねじ”との最初のかかわりであったとされています(1987年6月22日、ストックホルムで開催されたISO/TC1第13回本会議における記念講演“ねじの技術史”の要旨から抜粋)。
人類は後に“ねじ”を自ら製作することで、それを様々な用途に役立ててきました。現在ではねじを使わない機械はないといわれるほど普及し、締結用ねじの分野でも単なる締結を超える付加価値を備えたいわゆる“特殊ねじ”が続々と考案されています。今後、仮にねじに代わる新技術が出現したとしても、ねじでなければならない使用個所は永久になくなることはないでしょう。 |
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ねじの歴史を学ぶことは、その生い立ちを知る興味、歴史的発展の延長としてねじの将来像を探ること、及び先人の知恵を現代に生かすいわゆる“温故知新”の糧として役立ちます。
揚水ポンプ

図2.1
アルキメデスの揚水ポンプ
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ねじの形態をした最初のものは、アルキメデス(紀元前287〜212年)の揚水ポンプ(図2.1)であるといわれています。
木製の心棒の回りに木板を螺旋状に打ち付けたものが傾斜した木製の円筒の中に入っていて、円筒の下端が水に漬かっています。心棒の上端にあるハンドルをぐるぐる回すと、水を低いところから高いところへあげることができます。 |
図2.1では筒の側面を開けて内部が見えるようにしています。はじめは灌漑や、船底にたまった水の汲上げなどに使われました。
これは、16〜17世紀に中国へ伝えられて“竜尾車”と名付けられ、17世紀半ばには日本にも渡ってきて、佐渡金山の排水用に多数使われ、“竜樋”ともいわれました(図2.2)。 |

図2.2 佐渡金山の竜樋
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ねじプレス

図2.3 オリーブの実を
つぶすためのねじプレス
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大きな力を発生するために使われた最初のねじプレスは、紀元前100年にオリーブの実をつぶすために作られた図2.3に示すようなものでした。
ねじプレスはまた、葡萄酒作りにも盛んに使われるようになり、古い時代に使われた三角ねじ山の太い三角のねじが地中海の周辺で多数発見されています。 |
このねじプレスがグーテンベルクの印刷機(1450年頃)に利用されて、
現在も続いてる活字文明の先駆けとなりました(図2.4)。
新聞のことを“The Press”というのはその名残りです。 |

図2.4
グーテンベルクの印刷機
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締結用ねじ

図2.5
タップ・ダイスのスケッチ
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レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519)が残したノートの中に、タップ・ダイスによるねじ加工の原理(図2.5)がスケッチされています。このことから考えられるように、金属製のボルト、ナット、小ねじ、木ねじ類は1500年前後に出現しました。
これらの締結用ねじは、馬車や荷車などに使われ、フランスのルイ11世(1461〜1483)は金属製のねじで組み立てた木製のベッドに寝ました。また、この頃の鎧のあるものは、前方から身体を入れ、胸当てをその上からねじで止めるものでした。 |
図2.6は、ドイツ人ゲォルク・アグリコラ(1494〜1555)の著書に出ている鞴(ふいご)の製法を示す図の左下の部分ですが、それには、頭部にすりわりがあり、ねじ先がとがった木ねじのようなものが描かれています。 |

図2.6
ゲォルク・アグリコラの著書に出ている鞴
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図2.7
江戸時代の時計師
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1549年に来日したキリスト教のフランシスコ・ザビエルが、1551年に大内義隆に自鳴機(機械時計)を贈りました。その時計に使われているねじが我が国に伝わった最初の締結ねじであると推定されます。次節で述べる火縄銃のねじに遅れることわずか6年です。図2.7は、1690年(江戸時代)に出版された“人倫訓啓図蒙”に出ている時計師の図で、後方に見える櫓時計の頂上部にベルを固定するためのねじがあり、“蕨手(わらびで)”と称する蝶ナットの翼の部分が図示されています。
我が国には、古くから“ろくろ”と称する回転加工機があって製陶、木工などに使われていましたが、工具を回転軸の方向に機械送りすることはしませんでした。したがって、1860年に幕府が造船用機械に含めてねじ切り施盤をオランダから輸入するまでは、おねじはすべて鑢(やすり)などによる手作りでした。 |

火縄銃のねじ
1543年に、種子島に漂着したポルトガル人が携えていた2挺の小銃を、領主種子島時堯が大金を投じて買い上げました。これが我が国に伝来した最初の火縄銃であり、この伝来銃の銃底をふさぐための“尾栓”(図2.8)及びそれがねじ込まれる銃底のめねじ(図2.9)が、日本人が見た最初のねじであるとされています。
時堯は、2挺のうち1挺を種子島の刀鍛冶八坂金兵衛に見本として与え、その模作を命じました。金兵衛は、苦心の末、1年でこれに成功しました。
金兵衛にとって尾栓のおねじの加工は比較的容易であり、例えば糸をコイル状に巻き付けて、その線に沿ってやすりで切り込んでいくといった方法が考えられます。しかし、金属加工用工具として“やすり”と“たがね”しかなかった当時の刀鍛冶の技術からすれば、銃底めねじの加工は難題でした。
種々の苦心があった末、尾栓のおねじを雄型として熱間鍛造法で製作したのではないかと推定されます。
伝来銃の銃底に加工されためねじは時期的に見て、タップを用いて加工されたものであることは、ほぼ間違いありません。
金兵衛が製作した国産第1号(と伝えられる)の銃は、伝来銃(これは本物)と並んで西之表市の種子島博物館に展示されています(図2.10)。

図2.8
火縄銃の尾栓
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図2.9
火縄銃の銃底にある
めねじの開口部
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図2.10
種子島博物館に展示されている
伝来銃(上)と、八坂金兵衛製作と
伝えられる国産火縄銃(下)
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精密親ねじ
レオナルド・ダ・ヴィンチはまた、図2.11に示すねじ切り施盤のスケッチをノートに残しています。2本の親ねじ、スライトレストと換え歯車まで用意した近代的な構造のものです。一方、フランスの数学者ジャック・ベンソン(1500〜1569)は、図2.12に示すような独特なねじ切り施盤の絵を残しています。図において、作業者がプーリに巻かれた紐を引っ張ることによって親ねじが回転します。左側に見えるテーパ状のものが工作物で、プーリの直径を変えることによって、切られるねじのピッチを変えることができます。これらのねじ切り施盤の構想は、構想として優れていても、たとえ製作しても木製である限り、うまく作動しなかったのではないかと思われています。
全金属製のねじ切り施盤を製作したのは、イギリスのヘンリー・モーズレイ(1771〜1831)で、ロンドンの科学博物館に、モーズレイが製作した最初のねじ切り施盤(1800年)の模型(図2.13)が展示されています。
モーズレイは、まず刃物を支持するテーブルの移動を真直に保つため、スライトレストの真直度の重要さを高く評価するとともに、精度の高いねじを加工するためには、まずピッチ精度の高い親ねじを得る必要があることに着目しました。そこで、1本の親ねじについて、ピッチを測定しては手作業で誤差を修正し、10年がかりでこれまでにない高い精度と長さをもったものを作り上げました。彼はこれを取り付けた施盤を使用して、第2、第3の親ねじを、容易にかつ精度を高く作ることに成功しました。

図2.11
レオナルド・ダ・ヴィンチが
残したねじ切り施盤の
スケッチ
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図2.12
ジャック・ベンソンが残した
ねじ切り施盤の絵
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図2.13
ロンドンの科学博物館にある
モーズレイのねじ切り施盤の
模型
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互換のあるねじ
往時は、ボルトとナットを使わないときは、必ずねじ込んでおくか合印を付けておく必要がありました。ボルトとナットをばらばらにしておいたのでは、ねじ込み可能な相手を見いだすことがほとんど不可能であったからです。モーズレイか精密ねじの機械加工を可能にしたおかげで、別々に作ったボルトとナットのどれを組み合わせてもねじ込みが可能になり、いわゆるねじの互換性が期待できるようになりました。
イギリスの産業革命が進むにつれて、爆発的に拡大した機械工業は多数のボルト・ナット類を必要としました。これらのねじ類ははじめのうちは個々のメーカーが自製していましたが、やがてねじ専門のメーカーがまとめて製作するようになりました。しかし、多数の機械メーカーが勝手な直径、勝手なピッチのものを注文していたのでは、ねじの種類が膨大な数となり、まとめて製作する利点がほとんど生かされないことになります。
モーズレイの弟子であり、モーズレイに引き続いてねじ切り施盤が改良に従事していたサー・ジョセフ・ウイットウォース(1803〜1887、図2.14)は、当時の多数のメーカーによって製作されていたねじを調査し、ねじ山の形状、直径(外径)、ピッチ及びその組み合わせについて一つの成果を得ました。彼はこの"ウイットウォースねじ"と称するねじの形式を1841年に発表し、精力的な普及活動を行いました。
数年を経て、"ウイットウォースねじ"はイギリス全機械工場に受け入れられ、やがてこのねじで組み立てられたイギリスの機械類が全世界に輸出され始めました。 |

図2.14
サー・ジョセフ・ウイットウォース
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